2004-02-02 [長年日記]
_ [Music] The 500 Greatest Albums Of All Time
見るべき価値もない、かなあ。まあ、私ならこれは選ばないというものはあるが、ざっと見た限りではそんなに場違いな奴はいないし、とりあえずこのあたりは一通り聞いておかないとアメリカ文化は分かりませんよ、という意味では、入門者、それも私同様全て終わった後で生まれてきた「ガイジン」向けとしてはなかなか便利なリストだと思う。これぐらい聞いておけば、たいがいのものの善し悪しは分かるようになるだろうし、あるいは、ここからスタートしてあとは共演者などから芋づる式にたぐって好きなものを聞いていけば選から洩れているものもカバーできるでしょう。ようするに基礎教養ですね。
ロバート・ジョンスンあたりはわざわざ2枚挙げなくてもせっかく簡単に手に入るんだからコンプリート盤を挙げればいいのにと思うが、あえてKing Of the Delta Blues Singersを挙げているのはクラプトンだったかキース・リチャーズだったかがしょっちゅう言及してたからかしらん。私がこの日記のタイトルをもらったキャプテン・ビーフハートのあれが58位というのもまあ、妥当な線だと思う。ヴァン・モリスンが数枚上位に入っているのもよい。中庸というか、これだけバランスを取るのも結構難しかったんじゃないですかね。
ちなみに一般論としては、現時点で昔の人の録音を若い人に聞かせるということなら適当なコンピもののほうがいいと思います。あと、音楽的な内容に加え、メディア等で言及される頻度とか、社会に与えた影響みたいなものも加味されているんでしょう。逆に誰かが内容本位の「本音リスト」を作ったらいいんじゃないかな。
_ [Food] タンポポ風オムライス
夜中に不毛な勉強をしているとやたら腹が減るのだが、ある臨界点を越えると特定の食い物の妄想が頭のなかをぐるぐる回りはじめて困る。今食いたくてしかたがないのは「タンポポ風オムライス」だ。
オリジナルは故伊丹十三の「タンポポ」という映画に出てきたもので、チキンライスの上に半熟のオムレツが載っているというただそれだけの代物。これを、上からナイフでさーっと切ると中の卵がぱっと広がって、これがアアタ卒倒しそうなほどうまそうなんですわ。映画そのものの内容は見事に忘れた(そんなに悪い出来じゃなかったはず)が、このシーンだけは強烈に印象に残っている。食べるということの喜びがストレートに伝わって来たからだろう。ふすまだのこんにゃくだのを食ってダイエットとか抜かしている奴は豆腐の角に頭ぶつけて死んだほうがいい。
いきなり話が逸れたが、そもそも半熟のオムレツというのは作るのが猛烈に難しくて、私も何度となく挑戦しているがことごとく失敗だ。よそで食べるとなると例えばたいめいけんだろうが、たかがオムライスに2000円近くかけるのは狂気の沙汰であってできれば自分で作りたい。また研究を再開するか。
2004-02-04 [長年日記]
_ [Music] Sightsong / Muhal Richard Abrams feat. Malachi Favors
去る1月31日、素晴らしいベーシストであり、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(AEC)を支える屋台骨でもあったマラカイ・フェイヴァースが亡くなったそうだ。まだそんな歳でもなかったような気がするのだが残念。AECは私が一度生で見てみたいと思っていた数少ないグループの一つだったのだが、もう手遅れだった。合掌。
このアルバムは同じシカゴ出身の重鎮ピアニスト、ムハール・リチャード・エイブラムズとのデュオだが、あまりフリー臭くないので非常に聞きやすい。フェイヴァースの奔放でありながら押さえるべきところはきっちり押さえるベースワークに支えられて、寡作家で知られるエイブラムズがうまいんだかうまくないんだか良く分からないけれど極めて魅力的な演奏を聞かせている。ほぼ全曲がエイブラムズ(一曲だけフェイヴァース)のオリジナルだが、どれも優れた曲ばかりだ。おすすめ、したいところなのだが、品切れらしい。あらら。
2004-02-05 [長年日記]
_ [Life] なんだこりゃ
officeとか言う人が逮捕されたそうで、私自身はあまり詳しい事情を知らないのでコメントしないが、その彼に脆弱性を暴かれた件のCGIをこさえた(ではないのか、CGI自体は出来合い?)会社の勝利声明。読むと倒れる。
現在、ASKACCSの再開に向けた作業を進めていますが、 セキュリティの専門家やセキュリティ技術に依存しないセキュリティのあり方、セキュリティに依存しない情報社会のあり方を模索していかなければならないと考えております。
セキュリティに依存しないって...ようするに、また同じようなものをつくるということですか。
しかし、ACCSはそれなりに名のある組織だろうに、なんでこんな駄目そうな会社に発注しているんだろう。
_ [GNU] Emacs Lispの頒布
やはり今野さんの日記を拝見していてふと気がついたのだが、
例えば、 GNU Emacs で byte-compile された .elc ファイルを自分の WWWに置いて配布することを考えてみよう。 GPL では同じ場所 (もしくは自分が管理する別の場所) に GNU Emacs の全ソースコードを始めとする膨大なソースコードを置くことが要求される。 FSF で配布している GNU Emacs のソースへのリンクを張るだけでは GPL 違反となってしまう。たかが数キロバイトのバイナリを配布するために数十メガバイト以上の置場所を確保することが必要になる。
これは、.elさえ置いておけばよいような...Cのソースを頒布するのにGCCのソース一式置いておかなくてもよいわけで。「完全なソースコード」には処理系は入らないのではないか。
GNU GPLが古くなっているというのは私自身折りに触れて述べてきたことで、全くおっしゃる通りだと思う。「good enough is bad enough」というか、完全には破綻していないものだからなかなか改訂が進まない。2000年に青山でRMSと会ったときすでに「もうすぐGPL3を出すぞ」とか抜かしていたのだが、もう4年も経っている。困ったものだ。
テクニカルな問題以外にも、個人的には各国の著作権制度の差異を吸収するような仕組が必要だと考えているのだが、なかなかうまい案が浮かばないんですね。
_ [GNU] XFree86のライセンス変更に関して
今野元之さんがここでお書きになっていることは間違っていると思う。
3. All advertising materials mentioning features or use of this software must display the following acknowledgement: This product includes software developed by the University of California, Berkeley and its contributors.
という条項が存在する。
ちなみに、XFree86の新しいライセンスにも、
3. The end-user documentation included with the redistribution, if any, must include the following acknowledgment: "This product includes software developed by The XFree86 Project, Inc (http://www.xfree86.org/) and its contributors", in the same place and form as other third-party acknowledgments. Alternately, this acknowledgment may appear in the software itself, in the same form and location as other such third-party acknowledgments.
と言う条項が加わるらしい。
「このソフトウェアに言及する広告には必ずUCBがつくったということを明記せよ」「(再)頒布物に含まれるエンドユーザ向け文書には『これはXFree86 Projectによって開発された』云々という文言を載せろ」といういわゆる広告(宣伝)条項だが、両ライセンスの冒頭を見ればわかるように、そもそもこの要件を満たさない限り(再)頒布自体が認められていないというのがポイントだ。ゆえにこれらの条項は、プログラムの受領者による再頒布行為への実質的な制約として機能するので、今野さんも指摘されている通りGNU GPLの第6項と矛盾する。
よって、distribution と関係する可能性はあるが、 distribution が伴わない広告がありえるから独立していると考える余地があるというのはおかしいのではないか。distributionの前提が広告に件の文言を載せることなのだから。
そもそも広告しなければ頒布できる、という考え方もできそうだが、受領者が頒布する手足を縛ることになるには変わりないし、広告が打てないと頒布・流通にはマイナスなのは云うまでもない。ゆえに、この種の広告条項はやはりGNU GPLとは矛盾すると考えられる。
2004-02-18 [長年日記]
_ [Debian] we blog, you blog, so I blog
新山祐介さんが飽きたころに始めるのもまた一興、ということで、現在ナウいヤングに大ブレイク中とメディアも絶賛のブログを始める。ここです。
私が考えるブログの定義:
- 英語
- 画面構成がこじゃれている
- 実は大したこと書いてない
まあ、ようはPlanet Debianに登録したかっただけなんですが。例によってかなり昔にblosxomをインストールだけして、それっきり忘れていたのは内緒だ。
_ [Debian] Blender
現実逃避の一環として、久方ぶりにBlenderのパッケージをいじる。バグはあらかたつぶした。プラグインやPythonのスクリプトもdebに入れるようにしたので、オフィシャルサイトで配っているtarballとだいたい等価になったんじゃないかと思う。ちなみにMozilla用の3D Web Pluginはビルドはできるんだがうまく動かないようだ。残念。
というか、DebianでBlender使ってる日本人ているんですかね? 行きがかり上メンテナをやっているのだが、実はあまり使い方がわからないので(おまけに絵心もない)、かなり管理がいいかげんなのだった。プラグインとPython関係はいちおう動作を確認したが、GameBlenderとか使えているのかしらん。何か要望があったらBTSに突っ込むなりここに書くなり(推奨はしないが)してくださいね。
そのうち暇ができたらBlenderの入門書でも買ってくるか。何冊かあるようだし。
_ [Food] 餃子厨房 福楽門@大泉学園
親が疲れているというので、すぐ近所の中華料理屋に連れていく。三ノ輪にも同じ名前の店があるようだが暖簾わけなんだろうか。住所はよくわからないが、場所としては以前書いたブーランジェリー・べーの向かいである。
(たぶん)夫婦でやっている小さな店だが、「餃子厨房」と銘打っているだけあって水餃子と焼き餃子が充実しており、かなりうまい。特に、自店の名前を付けた福楽餃子(水餃子)は噛むと中から旨味のある肉汁が出てきて死にそうです。これで一皿5つ300円は安い。他に鶏とカシューナッツの炒め物やスープ(でかい鉢に入って出てくる)を頼んだが、どれもなかなか。
午前1時までやっているらしいのも夜型の人間にはありがたいところだ。
餃子厨房 福楽門
ランチ AM11:30 - PM 15:00
ディナー PM18:00 - AM1:00 (L.O. AM0:30)不定休
2004-02-20 [長年日記]
_ [Life] 附高創立50周年記念の集い
出た高校が創立50周年なんだそうで案内が届く。私の母校は吉村作治や香山リカなどある意味でそれなりにほぼ輝かしい人材を約数名排出輩出しているのだが、彼らは来るのかな。
_ [OpenSource] Blosxom
まあ、機能的にはしょぼいのですが、原始的なのである意味楽ちんだ。ひたすらテキストでベタ書きしてサーバにアップロードするだけとは、まるでplain2みたいです。
2004-02-22 [長年日記]
_ [OpenSource] オープンソースの定義更新
原文に10項が追加されていたので更新。指摘していただいたwakatonoさんに感謝。
_ [Music] 本日のBGM
一日中机にかじりついているわりには効率が悪い。BGMがよくないのだろうか。たぶん関係ありませんね。
今日聞いていたもの:
- The Fantastic Plastic Machine / FPM
- プレイボーイ プレイガール / ピチカート・ファイヴ
- Captain Buckles / David "Fat Head" Newman
- 日本の芸能シリーズ 浪曲1 国定忠治 名月赤城山 / 先代広沢虎造
- Stellar Regions / John Coltrane
邦楽探究の旅、なかなかピチカート人脈から先にひろがっていかない。マイルズは共演者をたぐっていくと芋づる式にいろんな人がひっかかってくるのだが。
2004-02-24 [長年日記]
_ [Life] Orkut
話が風雲急を告げるなかいきなりどうでもいい話ですが(笑)、TFJさんに誘っていただいたのでOrkutに入りました。なんか友達(の写真)を集めるのがビックリマンチョコのシールを集めるようで懐かしい感じ。
_ [OpenSource] オープンソースは簒奪者か
端的に云うと、1998年(1997年だっけ)にBruce PerensやESRが「フリーソフトウェアの定義」を書いたならば、それは「フリーソフトウェア」の簒奪だとRMSにシュッ・シュッ批判されてもしかたないと思うのだが、わざわざ「オープンソース」という新しい言葉(だと私は思うんだけど)をこさえているわけで、それを勝手に使っておいて俺流の定義を認めろというのは少々虫が良すぎる話だと思うのだがどうか。
どうもオープンソースを批判する人に関して私が理解できないのは、そんなに嫌ならそもそもそんな言葉を使わなければいいじゃんということなのである。すなわち、他人の褌を借りずに自分で用語を作って定義すればいい(もちろんそうやっている人もいる)。DFSGもOSDも最初はそうやって無から出来たのだ。基本的に、こいつらは「ものさし」に過ぎないので、便利なものを使えば良いのである。あなたの定義が出来たら、それがいかにOSDよりも優れているか、ぜひ私を説得してみていただきたい。
_ [OpenSource] かつて「オープンソース」は存在したか
今野元之さんが以下のようなことをお書きになっているのだが、内容に疑念がある。
いわゆる「オープンソースの定義」が発表されるより前から「オープンソース」という言葉が使われていたということは、使っていた人がそれぞれ自分なりに「オープンソース」という言葉を定義していたということ。『既に定義がある言葉の「俺定義」は失礼』というのが仮に真だとしたら、失礼なのは後から定義をした「オープンソースの定義」の存在そのものだよね (w。
今野さんは「OSDが世に出る以前に『オープンソース』という言葉が使われていた」というのをアプリオリな事実として、その上に論を組み立てているのだが、そもそも私が知る限り、「オープンソース」という言葉が1998年より前にソフトウェア業界で広く使われていたとは思えない。何か根拠はあるのだろうか。
もし根拠がないならば、OSDと共に登場した「オープンソース」という概念に、今野さんが後から勝手に「定義」してしまっているわけで、それこそずいぶん「失礼」な話である。
_ [OpenSource] 「オープンソース」という言葉について
以前にも書いたことだが、私は「オープンソース」と言う言葉が嫌いだ。ソースがオープンなだけ、という誤解を招きやすいからである。いずれにせよ、いまさら良い代替案が思い付かないし、これで普及してしまったから使っているというだけの話だ。
しかし、私は「オープンソース」という言葉が示す「概念」、すなわちライセンスがOSDによって定義された諸条件を満たしているというソフトウェアの置かれた権利状態は好ましいと思っている。それは、経験上OSDの条件を満たしていると頒布者として便利だし、開発者としてもフィードバックや共同開発がしやすいから楽、という極めて実利的な理由であり、煎じ詰めれば個人的な理由である。ゆえに、それがなんと呼ばれようが、概念としての(いわゆる)「オープンソース」については、よろこんで話をするし、その利点を説くことにやぶさかでない。また、その「利点」がどれだけロバストなものなのか、主張の正当性について議論もしたいと思う。逆に、概念としてのオープンソースの一線を崩すような動き、具体的には正当な理由もなくOSDに準拠していないライセンスを「オープンソース」と呼ぶような動きに対しては、一貫して反対し、場合によっては批判も加えてきた。しかし、ここで強調しておきたいのは、私が批判するのはそれがオープンソースでないからけしからん、だからライセンス変えろ、というような乱暴な強制をしたいがためではなく、OSDに準拠したライセンスという意味で「オープンソース」状態にないソフトウェアをオープンソースと呼ぶと紛らわしいからやめてくれ、というだけの話だということである。
たとえ話をすると話がややこしくなりそうだが、数学で「虚数」というのがあるでしょう。あれはimaginary number、またはそれに相当するドイツ語か何かの訳だと思うのだが、率直に云って誤訳だと思う。しかし、だからといって、レトリックとして詩などで使うならともかく、数学の話をしているときに「虚数というのはうつろな数って意味だから、ゼロのことなんだよー」とか云う奴がいたら、それは違うだろうと言わざるをえない。しかも、それを指摘されて「虚数は虚ろな数と書いてあるんだから普通はうつろな数と思うはずだ! 俺は悪くない!」とか云われた日には、そりゃあなた逆ギレですがなとしか言いようがない。そもそも、こういうのは間違っているか間違っていないかであって、善悪の問題ではない。
オープンソース云々もそれと同じで、私としてはソフトウェアの世界以外で、たとえば「オープンソース政党がー」とか云って騒いでいるような向きに関しては、まあ阿呆なことを言っているなあとは思うがあまり目くじらはたてないのだけれど、ソフトウェアについて話をしているときに変な俺定義を持ち出されると話がややこしくなるのでやめてくれ、というのが率直なところである。それが、私がオープンソースがOSDに準拠しているということにこだわる理由だ。
ある言葉が指し示す概念に関して、間違っている、あるいは正しくないと指摘するのは、私は正当だと思う。その際、議論はその概念の定義に関して行われるべきだろう。よって、私は現時点で、ソフトウェアが出てくる文脈においてOSDから逸脱した意味で「オープンソース」という言葉を使うのは、「正しくない」と思う。もっと云うと、OSDのようなわかりやすい基準があるということは、異義申し立てや外部からの批判をも簡単ということだ。そういう意味で、オープンソースという概念は極めて「客観的」だと私は思う。
と書くとまた誤解されがちなのだが、私はOSDを金科玉条永劫不変と思っているわけではない。あれは侃侃諤諤の議論の産物であって、いわば作業仮説にすぎない。正当な理由があれば今後改変されることもあるだろう(実際最近10項が付け加えられた)。OSDが課す条件の下では経験上バザール開発がうまくいくことが多いようです、それをオープンソースと呼びましょうねというだけのことなのだから、もしあの中の条件で円滑なソフトウェア開発に悪影響を及ぼすようなものがあれば、どしどし指摘してOSIに変えさせればいい。
話が少し横道に逸れたが、率直に云って、今野さんにしろ、今回まつもとゆきひろさんとやりあっている塩崎拓也さんにしろ、OSDのどのへんが具体的に自分にとって都合が悪いのかはっきりさせてくださったほうが、よほど有益な議論になると私は思う。
2004-02-27 [長年日記]
_ [OpenSource] 論争禁止
ここを読んで落ち込む。お話にならんといわれてもねえ。イメージ戦略?
というか、やはり日本だと、そもそも論争をやるとその中身よりも「論争をやった」ということだけでマイナスになるんだろうか。
オープンソースのバザール開発モデルというのはまともな議論がないとぽしゃるので、やっぱり日本ではうまくいかないのかもしれないな。となんで非常に日本的な日本人の私が云わなければならないのかよくわかりませんが。
_ [OpenSource] オープンソース二題
ということでひさしぶりにjlcに書いて見た。かりやんさんやyooseeさんの疑問に答えるものになっているだろうか。
_ [OpenSource] matzにっきへのツッコミに勝手に答える
なんというか、あれだけわかりやすく書いてもわからんのかとげんなりしている部分もあるのだが、matzにっきにああだこうだと書いているヒトビトにここで答えておきたい。
まずこのくっぱとか言う人だが、この手の話には以前「虚数」の例を出して反論しておいた。ようするに、字面的にわかりにくいものを最初誤解するのはしかたないが、間違いを指摘された後もずーっと誤用しているのはおかしいということだ。間違いを指摘されること自体を恥じる必要は全くない(のになぜかそれだけでキレる人がいる)のだが、開き直って何が悪いというのは見苦しい。
もうひとつこの種の例を挙げよう。rational numberを「有理数」というのも変な話で、あれは整数比で表されるという意味だろうからratio-nal number、「比的数」くらいの訳に本来すべきだと私は思う。しかし、だからといって適当に字面から意味を判断してよいということにはならないでしょう。で、この手の人たちの議論というのは、
「有理数」? ああリクツのある数だよね。ちゃんと知ってるよ。造反有理てやつでしょ。「無理数」は無理矢理な数っていうことだよねー。え、違うの? でもコトバからはフツーはそう思うよー。だからこれからも使い続けるね
と言っているようなものである。「オープンソース」とかいうとあまり馴染のない話なものだから、このくっぱ某のような変な論理もそれなりにまともに見えてしまうのだろうが、これくらい当り前な話まで引き戻せばこの種の議論がおかしいことはすぐわかるだろう。というか、こんなのはそもそもオープンソースがどうたらこうたらとは関係ない、単なる詭弁である。このpalとかいうのに至っては「私に言わせれば、啓蒙しなければ誤解されてしまうような言葉を使うこと自体がナンセンスです。」と言うが、理解せずにイメージだけで変な言葉を使うほうがはるかにナンセンスである。
次にこのま2であるが、せっかくSFの話が出たのでSFのたとえ話をしよう。そもそも「サイエンスフィクション」と云えそうなお話は古代からあったわけで、でもまあ普通はSFというとジュール・ヴェルヌ以降ということになるかもしれないし、完全無欠の「SFの定義」なんぞしようとしても土台無理な話だ。これは私の記事でも書いたことだが、元々存在したものを後から過不足なく定義するのは不可能に近い。
しかし、「SF作家P.K.ディックの著作リスト」を「ディックが書いたものの一覧」として定義すれば、これはきちんと定義できる。というのは実は嘘で、例えば「ニックとグリマング」(というディックが書いた童話がある)は入れるのかとか、「世界の終わりがなんとかかんとか」(というSF風味の純文学のようなものもある)はどうするんだとか、遺作群は本当に入れていいのかとかいろいろ議論がありうる。こういうのは大変素晴らしい。すなわち、OSDそのものについて議論するのは大変結構なことである。
しかし、今回ソフトウェアの世界において、「オープンソース」をOSDで定義されている以外の意味で使いたいという人が言っていることは、
「ハインラインも同じSF作家だしさー、あれもディックの著作リストにいれようぜ」
「山形浩生はディック訳してるしさ、山形の著作もディックの著作リスクにいれようぜー」
みたいな話である。いくらなんでもそれはやばいじゃろ。私が主張するのは、だったら「ディックのリスト」などと云わず、「ハインラインのリスト」なり「山形浩生のリスト」なりをつくって勝手にやれ、ということだ。
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