2007-06-17 [長年日記]
_ [Music] Solo Piano / Phineas Newborn Jr.
どんな人にも「売り物」がある。セールスポイント、商売道具であると同時に、その人の存在そのものと深くつながっていることすらあるだろう。だから、例えば速球が売り物だった野球のピッチャーが怪我で速い球を投げられなくなると、これは二重の意味で深刻な事態だと言える。年俸が下がる、解雇される、食っていけないということもさることながら、自らのアイデンティティ自体が揺らいでしまうことすらあるからだ。
フィニアス・ニューボーン・ジュニアは、その卓抜なテクニックが売り物とされることが多い。アート・テイタムの再来、オスカー・ピーターソンのライバルともてはやされた時期もあった。確かに絶頂期のこの人のテクニックは平均的なハードバップ・ピアニストを圧倒しているし、両手をフルに使った華麗な演奏は他とは別格のスケールの大きさを感じさせる。
私は一時期この人に入れ込んで、彼が遺したほぼ全ての録音を聞いた上でディスコグラフィを作った。その上で私が思うのは、この人の売り物というか本質は、おそらくテクニックとはあまり関係の無い、何か別の部分にあったのではないか、ということだ。単純に指が動くとか動かないという点だけ見れば、絶頂期と比較しても最近の音大出のピアニストのほうが上回っている可能性すらある。しかも70年代以降はアル中や精神病、手の怪我で、往年のテクニックは見る影も無い。ちなみに手の怪我は事故によるものとされることが多いが、本当はバットで殴られて両手指を砕かれたとかいう陰惨な話らしいので、ヤットコで歯を抜かれたチェット・ベイカー同様クスリがらみのごたごたでギャングに商売道具を潰されたというのが真相ではないかと思う。いずれにせよ、テクニックがフィニアスのフィニアスたるゆえんならば、この時点でこの人はおしまいである。
しかし最近私は、彼のキャリアの後半、70年代以降の音源を好んで良く聞くようになった。たとえば75年に録音されたこのアルバムでは、相当調子を戻しているとは言え、冷静かつ客観的に見ればヨレているとしか言いようがない(ピアノも安物っぽい)。しかし、何かしらこちらの心に食い込んでくるものがある。それは単に私が彼のミーハーなファンで点が甘くなっているだけなのかもしれないし、あるいは他の理由があるのかもしれないが、少なくとも、フラック&ハザウェイで有名なWhere is the Loveをここまで濃厚な感情を込めて解釈できるのは、私が知る限りこの人しかいない。晩年のバド・パウエルもそうだが、本当の天才は、表面的なテクニックが失われてようやく本質があらわになるということなのではないかと私は思う。
それはともかく、このアルバムのジャケに書いてある曲名表記はめちゃくちゃです。1曲めはTogether AgainじゃなくてUp Thereだし、7曲めはBouncing With BudじゃなくてOne For Horace(というかWail)だね。もう少しなんとかせいよ。