2006-08-14 [長年日記]
_ [Reading] 革命的半ズボン主義宣言 / 橋本治
作家の吉川潮が産経イザ!に『いい大人が半ズボンとは』とかいう記事を書いている。「半ズボン野郎の顔をしみじみと見ると、どいつもこいつも仕事ができそうにない感じがしてならない」というあたりが最高だ。仕事と半ズボンは全然関係無いじゃねえか。いい大人がこんな記事を書くほうがよほど恥ずかしい。一応公正を期すために言うと、吉川の江戸っ子だってねえ―浪曲師広沢虎造一代 (新潮文庫)(吉川 潮)は良い仕事だった。半ズボンもはいてないのにこれが書ければ立派なものだ。
私は夏は大体どこに行くにも半ズボンだ。理由は簡単で、暑いからだ。もっと厳密に言えば、クソ暑いからだ。クソ暑いにも関わらず長ズボンをはくことのどこに合理性があるのか私にはさっぱり分からない。日本(というか東京)が暑いこと自体は当面いかんともしがたいが、自分が暑いのは薄着をすれば改善できる。改善しないのは単なる怠慢である。冷房だって金がかかる。下手すりゃ国民の税金の無駄遣いだ。あるいは環境破壊の遠因だ。
だいたい、半ズボンだってちゃんと着こなせばかっこいいのだ。最近の半ズボンはユニクロの安物だって相当にかっこいい。毛ずねが見苦しければ剃ればよいではないか。腹が出ているなら痩せればいいではないか。ようは、半ズボンをはいてかっこよく見える、借り物ではない日本独自の様式を、自分の頭で考えて自主的に確立すればよいのである。気候が全然違うオランダから輸入した洋服を、こんな亜熱帯じみたところで何も考えずに着るから話がややこしくなるだけの話。そもそも、見苦しいのはそいつ自身の問題であって半ズボンのせいではない。ゆえに私個人が見苦しいのは私の問題であって大変申し訳ありませんでした。あと、もちろん半ズボンがはきたくない奴は黙ってはかなければ良いのである。そういうことを自分で判断できるのが、主体性ある大人ってやつじゃないんですかね?
というような議論は、1984年に出たこの本ですでにこってりと展開されている。一冊使って「男が半ズボンを履くことの正当性」を完膚無きまでに論証し、返す刀で実は半ズボンとは直接関係ない、「近代日本的なるもの」の問題点まで論証してしまった橋本治はすごい。正当性というものは前例や上位者からの指令や周囲からの同調圧力によってではなく、論理によってのみ獲得されるのだ、ということを、身をもって証明した本。
全く同感。吉川潮のコラムは馬鹿で見苦しい。<br>ズボンの長さなんて結局はどうでも良いことであって、そのどうでも良いことに屁理屈でもこじつけでもつけて、読んだ人がちょっとでも楽しめればコラムとしてはOKだと思う。しかし馬鹿の文では半ズボンがだめな理由がない。主題が建設的ない上エンタメとしても機能していない。こんな新聞に金を払っているのが腹立たしいよ。
全くです。馬鹿馬鹿しいを通り越して哀れ。<br>人と違った主観をお持ちなのは結構。しかし、こうも主観がガキっぽいのでは品性というか社会性というか…若輩者である私にはうまく言葉にすることができないが、どこかおかしい。<br><半ズボンを幼児性の象徴ととらえるとわかりやすい>→ゴメンナサイ。この世界に息づく生き物何一つとしてわからないでしょう。<br><中学生以上は夏でも長ズボンをはくのが常識であった>→何それ?世間の常識を勝手に脳内補完しないで下さい。誰一人としてそんなこと思ってませんよ。<br><大人で半ズボンが似合うのは>→この直後に<いい歳をした社会人が>と言ってますが、明らかに矛盾してますよね?<br>などなど、叩くべき所は山どころか海ほどありますが、あんまり言い過ぎると可哀相なのでこの辺にしておきます。<br><br>最後に、こんな駄文で原稿料がもらえるのは凄い事です。その感性を大事にして下さい。
確かにそんな曲がった 偏見の塊の作家だか何だかわからんような頭の固まりきった、馬鹿な大人の代表格が書いた「大人半ズボン不可論」は馬鹿げている。半ズボン=低脳、幼児性 は? 作家辞めて ハローワークにでも行ったほうがいいのではないでしょうか?偏見の固まりの頭じゃ 採用はないか。またこんなコラムを堂々と載せる新聞社もどうなんでしょうか? 今まで偏見によって多くの人々が傷ついて来た、それがジャーナリズムの正しい姿なのでしょうか?